極上のリラクゼーション

リラックスをするのがとても下手だ。いつもなんてことないことを取りとめもなくグルグル考えている。そういうたちなのだ。ストレスへの耐性はアレルギーで例えられるコップに溜まる水と大体同じだと思う。違いは自分でコップを傾けて水をこぼすことができるところ、コップの大きさを変えられるところ。溢れたら日常生活に支障が出てくる。わたしは注がれる水が多いというより、元々コップが小さいのだと思う。そしてコップを傾ける術を知らない。

何をしているときに安らぎを感じるのか考える。最近よつばと!を読んでいる。ぷっと笑ってしまうし、誰も見返りを求めない「愛」という感じがする。子供は特に好きというわけではないし、満たされた人間関係や日常には劣等感を感じるけれど、よつばと!はなんでかそういう自己投影とは切り離して読める。「幸せってこういうことだよな~」と純粋に思える好きなマンガだ。

今は休んでいるけれど、通勤の30分間運転しながらひとりで歌ってるときすごく楽しいと感じる。新しいCDを手に入れると1曲目から流して聞くことに専念したりするけれど、歌う用のプレイリストを作ってそれを結構な音量で流して歌う方がいい。音楽を聴くのが好きとは堂々と言いづらいけど、歌うのが好きとは思う。それでもやっぱり上手くないから堂々とは言えないな。声の調子が良かったりすると「まだ着かなきゃいいのに」と思うけど、運転自体は嫌いなのでドライブしようという気にはならない。運転しなれた道じゃないと歌うことに神経を使えない。信号待ちのとき音漏れを気にして中断させるから、交通量が多い時間も嫌い。遅番で帰る時間だと暗くて車も人も少ないからベスト。また毎日そんなことがしたいな。だんだん疲弊して声も出なかったり、涙で曇る視界を拭いながら運転することが増えてきて今に至ることを思い出した。二ヶ月くらい同じCDを入れっぱなしにしていた。いしわたり淳治が「鼻歌が自然と出るのは気分のいい証拠だ」というようなことをエッセイに書いていたような気がするけど(違う人だったかもしれない)、その通りだと思うし、そのような気持ちでできるだけ長くいれたらいいなと思う。

我が家のねこにかまう時も癒やされる。兄弟で捨てられているのをわたしが一匹選んで連れてきたから、わたしのねこという感じがする。彼に手をかけることは「愛」という感じがする。何も求めず期待せず「ただ健やかに幸せに一緒にいてほしい」というそれだけの気持ち。毛や舌の手触りや体温も純粋に心地いい。ただ実際忙しいとか起き上がれないとかを理由に母に世話してもらっているところもあるから、そういう時は罪悪感も感じてしまうかも。甘えん坊だけど甘えベタで、人の顔色を伺いビビりで照れ屋なやつなので少し心配になる。もっと楽にしていいんだよと言いたくなる。少しわたしに似ている。

最近の安らぎ、すぐ思い浮かんだのがこれらだった。本当はもっとあるのかもしれない。共通するのは「快い感情だけ」というところみたい。そんな時間や回数を多くすれば、コップを傾けることができれば、今より生きやすくなるんだろう。何をするにしても相反する気持ちというか、「でも」「だって」「~だったらどうしよう」「~でなければいけない」という気持ちが起こってしまう。そして結局酒や薬、食べる、眠るなど自分をぼやかしたり誤魔化すことに逃げてしまっている。それらも「趣味だ」と言い切ってしまえれば、他人に迷惑をかけない限り心身を損なわない限り構わないのだろうけど、やはり素直に好きで楽しいとは思えないし実際心身を損なっている。損なうためにしてしまう部分もある。罪と罰なんて大げさな言葉だなと思っていたけど、日常的に頻繁に罪を感じて罰を求めていると気づいたのがつい最近だ。罪とは「してはならない、正しくない行いをすること」らしい。その「してはならない、正しくない」を決めているのは誰だろう?気付いたのだったら、もういい加減許してもいいんじゃないかと自分に言い聞かせてみる。悲しいことにこれから先、「わたし」でなくなることはないのだし。

 

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「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

※ネタバレ注意

 

一度借りて、観ずに返してしまった。鬱映画だと聞いていたから、余裕のある静かなときに観ないといけないと思って。やっと観ることができた。

ホームビデオみたいな映像(実際ハンディカメラで撮ったらしい)、小さい暮らしの中にささやかな幸せやときめきを見出すような、でも楽じゃないよね、という序盤にほっこりしながら、ビョークの歌すげえーと気を抜いていた。ミュージカル映画をあまり観たこともなかったから、ミュージカルというのは無条件に心躍るものなのかーと関心していたのもつかの間、ほんの少しの翳りが抵抗する間も無くどんどん大きくなっていって、そしてそのまま救われず希望も持てず終わってしまった。全然楽しくない。辛い。虚しい。でもだからといってバッドエンドと言うのかは分からないなあ。

主人公のセルマが追い詰められていくたびに展開する、「こうだったらいいのにな」のミュージカルはやっぱりどの場面でも、心躍るというと気恥ずかしいけれど、ときめくリズムとダンスだった。ビョークもとても楽しそうなんだけど、それと反して進んでいくストーリーとドキュメンタリータッチな編集とのギャップが痛々しくて痛々しくて辛い。ミュージカルはセルマの唯一の娯楽。泣きたいよりだんだんイライラした、ほんとクズばっかりなんでセルマ幸せになんねんだよ!!という感じ。拘首台へ向かうシーンは「やめてくれーやるなら早くやれー」としか思えなかったけど、今思い返すとものすごいシーンだった。「フードは嫌、息が苦しい!」「彼女は盲目よ!」って怖いとも違う鳥肌。望みがかなったことに救われたような、恐怖を叫ぶような最後の歌。あんなに合図も何も無く足場を外されるのか。とても怖かった。

救われ無すぎて呆然とエンドロールを眺めていたけど、観終わっていろいろ考えると、セルマは結局全部自分で選んでエゴを貫き通したから別に不幸じゃないんじゃないかと思ってる。親友の救いも受け取らなかったし、息子の声も聞かなかった。自分がやると決めたことを弱みを見せずに全部やったから、嘆くほどの悲しみはないというところに落ち着いた。振り回された人たちは彼女を恨むかもしれないけど、本人が望んだのだし、幸せとはいえないけどやりきった人生なんじゃないのかな。それでもやっぱり後味は悪いから、またぜひ観たいとは思えない。ひとりで映画を観たいときにまた手に取るかと言ったら、絶対取らない。それでもビョークの音楽と歌には心が震えたし、ビョークじゃなくちゃそうは思えなかったと思う。アナログっぽい荒さのある映像・色彩も好きだし、ファッションもかわいかった。適当に留めたり編んだりした黒髪に、厚くて大きな黒縁めがね、ニットのカーディガンに柄のスカートにタイツ、靴音がコツコツ鳴りそうな靴ってすごくタイプ。ビョークも母親の役なのに少女のような表情なんてするから、なんだかはっと目を奪われてしまった。

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廃人

黄体期の後期に入ってからもうずっと下降し続けている。とにかく眠り続けていたけど、いま少しすっきりしたので起き上がってパソコンを開いた。夢と現実が混同する、記憶があいまい、力が入らない、何より腰が痛い。めまいがまたする。横になると強く感じる。眠っていると時間が経つのが早すぎる。眠りにつく時頭の力が抜けていくのが分かるのがとても気持ち悪い。脳が寝て身体が起きてるのだろうか。気分の落ち込みもひどく、昨日と今日はトイレと食事以外何もしていない。こんなにだるいのに寝て起きるとお腹が空いているのでもう嫌になる。今回は過食も強烈で、食べるほどに胃腸の調子が悪くなって吐いたり下したりしているのに、懲りずにまた食べ負の連鎖。酒は飲んでもぜんぜんおいしくない。この憂鬱と不調が一生終わらないような気がして、「鬱 寝たきり」「引きこもり 何年」「廃人」とかで検索しては自分のことのように見てるけど、たぶん生理がくればそんなこと思わなくなる。実際この状況が終わるかは分からないけど、一生続くとは思いたくない。続かない。たぶん。早く抜け出したい。

ダンサーインザダークを観ようとしたけど、開始数十分で電話が来て、その後ひどく落ち込んで、途中で止めてしまった。そして期限で返してしまった。薬を飲んでたから記憶も少しあいまいだけど、色彩がキレイだったのとビョークのデカい眼鏡と微笑みが素敵だったのと音楽が軽快だったのは覚えてる。今すぐにでもまた見たい。別に映画は言うほど好きじゃない。音楽も本もぜんぜん好きじゃない。そう言って知識が乏しいことの言い訳にしている。「好き」に知識の豊富さも優劣も無いはずと分かっているのに、実際そのファッション性ばかり気にしているように感じる。でも今直面してる自分の問題が解決していくほど、自由に楽しめるような気もしている。それはどんな世界なんだろうか、わたしはどんなものを選んで好むのか、全く分からない。

呼吸をすると、吸うより吐くほうが断然気持ちいい。淀んだものでパンパンだ。色々出したい。

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RPG

冒険やチャレンジが嫌いでリスクが極力ない方を選ぶようになっていたけれど、そうやって生きていくにも限界があるように感じている。リスクを取ってやっていく自信がない。自信とは経験から生まれるものではないのか。もう少し掘り下げれば自分を信頼することで生まれる気がする。自分を信じられなければ他人も信じられないと言うけど、その通りだと思うけど、信じるってとても難しい。揺るぎないものだってどうして言えるの。現に2時間前まで「生まれてこなきゃよかった」って袖をビシャビシャに濡らして世界一不幸だ、悲しみの底だ、とか考えていたのに、今はこうしてパソコンの電源をつけてビーフジャーキーかじりながら気楽にぼんやりとブログなぞ綴っている。そんな人間信用できるかよう。

わたしはできるなら最初の街でレベル100まで上げてからストーリーを進めたい。途中でつまずきたくない。危機感を感じたくない。できる限り努力をしたくない、がんばりたくない。こう考えるのは白黒思考の人に多いそうだ。はいはい認知の歪み。

そもそも「努力する、頑張る=当たり前」の風潮がもうすでに納得いかないよ。この世に生を受けたら無条件で「頑張らなくてもいい人生」を与えてくれよ。もうずっと生きたくねーんだよ。

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南国の肌

ココナッツオイルを肌に塗るようになってから調子がいい。キメが整ってもっちりしてきたような気がする。顔の肌は比較的安定しているけど、身体はまだまだ触るたび見るたびに憂鬱だ。アトピー体質で、これでも昔よりだいぶよくなった。でもこの劣等感のせいで夏が嫌いだし、お風呂や身体を触られることがとても億劫だ。本当は楽しみたいのに全然楽しめないのは結構悲しい。外的要因よりも、ストレスや口にするものに原因があるのだろうと気付いてはいても、ずっと改善できないでいる。ここにも「分かってほしいけど分かってほしくない」「受け入れてほしいけど自信がない」とかそんな気持ちがありそうだ。

わたしは料理に使うよりスキンケアに使う方が使いやすい。食用油と思うと高いけどスキンケア用のオイルと思うと許容範囲だし、もともと使ってるソンバーユよりずっと安い。今の時期は白く固まっていても、肌に乗せるととろりと溶けてベタベタにならず使いやすい。LUSHのマッサージバーを思い出す。(あれはとてもエッチな商品としか思えない)身体から南国の浮かれた甘い香りがするのにははじめ気後れしたけどすぐに慣れた。人工香料よりは気持ちいい。他人はあまり感じないようだし。

食用には、トーストにバター代わりに塗ったりカレーに混ぜて使ったりしてみたけど、身体のココナッツの香りを感じながら、ココナッツの香りのするオイリーなものを食べるのは結構きびしい。嫌いじゃないけど・・・量の研究がまだ必要。もっと有効活用して洒落た料理にでも使ってみたい。スイーツに使うのはとてもおいしそうだ。

 

今週のお題「愛用しているもの」

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