「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

※ネタバレ注意

 

一度借りて、観ずに返してしまった。鬱映画だと聞いていたから、余裕のある静かなときに観ないといけないと思って。やっと観ることができた。

ホームビデオみたいな映像(実際ハンディカメラで撮ったらしい)、小さい暮らしの中にささやかな幸せやときめきを見出すような、でも楽じゃないよね、という序盤にほっこりしながら、ビョークの歌すげえーと気を抜いていた。ミュージカル映画をあまり観たこともなかったから、ミュージカルというのは無条件に心躍るものなのかーと関心していたのもつかの間、ほんの少しの翳りが抵抗する間も無くどんどん大きくなっていって、そしてそのまま救われず希望も持てず終わってしまった。全然楽しくない。辛い。虚しい。でもだからといってバッドエンドと言うのかは分からないなあ。

主人公のセルマが追い詰められていくたびに展開する、「こうだったらいいのにな」のミュージカルはやっぱりどの場面でも、心躍るというと気恥ずかしいけれど、ときめくリズムとダンスだった。ビョークもとても楽しそうなんだけど、それと反して進んでいくストーリーとドキュメンタリータッチな編集とのギャップが痛々しくて痛々しくて辛い。ミュージカルはセルマの唯一の娯楽。泣きたいよりだんだんイライラした、ほんとクズばっかりなんでセルマ幸せになんねんだよ!!という感じ。拘首台へ向かうシーンは「やめてくれーやるなら早くやれー」としか思えなかったけど、今思い返すとものすごいシーンだった。「フードは嫌、息が苦しい!」「彼女は盲目よ!」って怖いとも違う鳥肌。望みがかなったことに救われたような、恐怖を叫ぶような最後の歌。あんなに合図も何も無く足場を外されるのか。とても怖かった。

救われ無すぎて呆然とエンドロールを眺めていたけど、観終わっていろいろ考えると、セルマは結局全部自分で選んでエゴを貫き通したから別に不幸じゃないんじゃないかと思ってる。親友の救いも受け取らなかったし、息子の声も聞かなかった。自分がやると決めたことを弱みを見せずに全部やったから、嘆くほどの悲しみはないというところに落ち着いた。振り回された人たちは彼女を恨むかもしれないけど、本人が望んだのだし、幸せとはいえないけどやりきった人生なんじゃないのかな。それでもやっぱり後味は悪いから、またぜひ観たいとは思えない。ひとりで映画を観たいときにまた手に取るかと言ったら、絶対取らない。それでもビョークの音楽と歌には心が震えたし、ビョークじゃなくちゃそうは思えなかったと思う。アナログっぽい荒さのある映像・色彩も好きだし、ファッションもかわいかった。適当に留めたり編んだりした黒髪に、厚くて大きな黒縁めがね、ニットのカーディガンに柄のスカートにタイツ、靴音がコツコツ鳴りそうな靴ってすごくタイプ。ビョークも母親の役なのに少女のような表情なんてするから、なんだかはっと目を奪われてしまった。

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廃人

黄体期の後期に入ってからもうずっと下降し続けている。とにかく眠り続けていたけど、いま少しすっきりしたので起き上がってパソコンを開いた。夢と現実が混同する、記憶があいまい、力が入らない、何より腰が痛い。めまいがまたする。横になると強く感じる。眠っていると時間が経つのが早すぎる。眠りにつく時頭の力が抜けていくのが分かるのがとても気持ち悪い。脳が寝て身体が起きてるのだろうか。気分の落ち込みもひどく、昨日と今日はトイレと食事以外何もしていない。こんなにだるいのに寝て起きるとお腹が空いているのでもう嫌になる。今回は過食も強烈で、食べるほどに胃腸の調子が悪くなって吐いたり下したりしているのに、懲りずにまた食べ負の連鎖。酒は飲んでもぜんぜんおいしくない。この憂鬱と不調が一生終わらないような気がして、「鬱 寝たきり」「引きこもり 何年」「廃人」とかで検索しては自分のことのように見てるけど、たぶん生理がくればそんなこと思わなくなる。実際この状況が終わるかは分からないけど、一生続くとは思いたくない。続かない。たぶん。早く抜け出したい。

ダンサーインザダークを観ようとしたけど、開始数十分で電話が来て、その後ひどく落ち込んで、途中で止めてしまった。そして期限で返してしまった。薬を飲んでたから記憶も少しあいまいだけど、色彩がキレイだったのとビョークのデカい眼鏡と微笑みが素敵だったのと音楽が軽快だったのは覚えてる。今すぐにでもまた見たい。別に映画は言うほど好きじゃない。音楽も本もぜんぜん好きじゃない。そう言って知識が乏しいことの言い訳にしている。「好き」に知識の豊富さも優劣も無いはずと分かっているのに、実際そのファッション性ばかり気にしているように感じる。でも今直面してる自分の問題が解決していくほど、自由に楽しめるような気もしている。それはどんな世界なんだろうか、わたしはどんなものを選んで好むのか、全く分からない。

呼吸をすると、吸うより吐くほうが断然気持ちいい。淀んだものでパンパンだ。色々出したい。

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RPG

冒険やチャレンジが嫌いでリスクが極力ない方を選ぶようになっていたけれど、そうやって生きていくにも限界があるように感じている。リスクを取ってやっていく自信がない。自信とは経験から生まれるものではないのか。もう少し掘り下げれば自分を信頼することで生まれる気がする。自分を信じられなければ他人も信じられないと言うけど、その通りだと思うけど、信じるってとても難しい。揺るぎないものだってどうして言えるの。現に2時間前まで「生まれてこなきゃよかった」って袖をビシャビシャに濡らして世界一不幸だ、悲しみの底だ、とか考えていたのに、今はこうしてパソコンの電源をつけてビーフジャーキーかじりながら気楽にぼんやりとブログなぞ綴っている。そんな人間信用できるかよう。

わたしはできるなら最初の街でレベル100まで上げてからストーリーを進めたい。途中でつまずきたくない。危機感を感じたくない。できる限り努力をしたくない、がんばりたくない。こう考えるのは白黒思考の人に多いそうだ。はいはい認知の歪み。

そもそも「努力する、頑張る=当たり前」の風潮がもうすでに納得いかないよ。この世に生を受けたら無条件で「頑張らなくてもいい人生」を与えてくれよ。もうずっと生きたくねーんだよ。

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南国の肌

ココナッツオイルを肌に塗るようになってから調子がいい。キメが整ってもっちりしてきたような気がする。顔の肌は比較的安定しているけど、身体はまだまだ触るたび見るたびに憂鬱だ。アトピー体質で、これでも昔よりだいぶよくなった。でもこの劣等感のせいで夏が嫌いだし、お風呂や身体を触られることがとても億劫だ。本当は楽しみたいのに全然楽しめないのは結構悲しい。外的要因よりも、ストレスや口にするものに原因があるのだろうと気付いてはいても、ずっと改善できないでいる。ここにも「分かってほしいけど分かってほしくない」「受け入れてほしいけど自信がない」とかそんな気持ちがありそうだ。

わたしは料理に使うよりスキンケアに使う方が使いやすい。食用油と思うと高いけどスキンケア用のオイルと思うと許容範囲だし、もともと使ってるソンバーユよりずっと安い。今の時期は白く固まっていても、肌に乗せるととろりと溶けてベタベタにならず使いやすい。LUSHのマッサージバーを思い出す。(あれはとてもエッチな商品としか思えない)身体から南国の浮かれた甘い香りがするのにははじめ気後れしたけどすぐに慣れた。人工香料よりは気持ちいい。他人はあまり感じないようだし。

食用には、トーストにバター代わりに塗ったりカレーに混ぜて使ったりしてみたけど、身体のココナッツの香りを感じながら、ココナッツの香りのするオイリーなものを食べるのは結構きびしい。嫌いじゃないけど・・・量の研究がまだ必要。もっと有効活用して洒落た料理にでも使ってみたい。スイーツに使うのはとてもおいしそうだ。

 

今週のお題「愛用しているもの」

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言い訳

ブログを開設するのは何度目だろう。ブログ、SNS、個人HPなど形を変えながらかれこれ10年以上インターネット上に居場所を作っている。おかげでブラインドタッチができるようになった。あまり役に立ってない。昔のアカウントのいくつかはきっと電子の海を漂っている。不安。

 特に友達もいないのにこういうものを辞められないのは、簡単に承認欲求を満たせるから。それ以上も以下もない。わたしはいつだって誰かに認めてもらいたい。誰だってそうだ。

最近精神を病んでいて自分の心と向き合うことが多いのだけど、わたしのその気持ちがいかに自分を殺していたかということに初めて気づく。取り繕っていることに全く気づかず、自分の意思を持たない人間になってしまっていたみたいだ。取り繕ろうことに疲れてはある日突然大爆発を起こして、周りの人を動揺させることを繰り返してきた。それはとても空虚な気持ち。

「人によく思われるとうれしい」が「人によく思われなくてはいけない」と思うようになり、「人によく思われなくては、わたしの存在の意味がない」と思うようになっていたらしい。23年間無自覚だったというのが恐ろしい。でも思い当たる節はたくさんあって、何より嫌われることが怖くて拠り所を見つけては依存し、学校生活も人間関係も続かず、問題行動を起こしては愛情を試すようなことをして、でもふと立ち止まると自分がなにをどうしたいのか分からない空しさ。ボーダーの典型ですほんとう。それでも年齢と共に環境も変わって落ち着いてきたように感じるので、今回こうして心と向き合うのはいい機会だと思えている。このまま人生を歩むのはあまりに絶望的だ。

こんなことに気づかせてくれたのが今の主治医なので、とても感謝してる。死ぬまで診てほしい。彼女(女医さん)は「医者は病気を治せないけど、わたしは治す手伝いをする」と言っていて、はじめは理解できなかったけれど今はよく理解しているつもりだ。でも超しんどい。眠剤抗不安薬もくれないので、ほんとう衰弱する。幸いわたしは今自殺願望は強くないし、解離もないし、家族も理解してくれているからなんとかなっているけど、死にたいMAXでこんなことされたらとても耐えられないだろうと思う。そして昔のわたしだったらまったく理解できなかった。なんて言いながら耐えられず市販薬乱用したりしていたけど。

ぜんぶ受け入れること、認めること、寄り添うこと らしい。

 うつ状態が少しよくなって、時間を持て余すことがたまにある。少しでも頭を使う練習になったらいい。これを書くにも集中力が持たず1時間半以上かかってしまった。

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